2009年4月1日水曜日

どうして馬の話題??

私の独り言にお付き合い下さっている方は、その独り言の内容に「馬の話題」が多いことにお気づきのこととおもう。それは、今住んでいるカナダの東部の自宅付近の環境にも大いに関係がある。

私が住んでいる町は、モントリオールから東に100キロ程離れた、人口5000人ほどの小さな町だ。しかし、ハイテク工業区も側にあり、GE IBM など、世界的にも有名な会社の工場がある。従って昼の人口は3倍ぐらいにも膨れ上がり、小さな空港もあって、プライベートジェットで訪れる人も多い。

ここを開いた最初の市長さんの家を縁あって兄が購入し、その彼の所有地を私も少し分けてもらった関係で、彼の家や人口湖を有した湖畔の小屋に何度かお邪魔したこともあった。そこには、馬車や馬の写真が飾られており、その湖畔の土地で過去に飼われていたポニーの写真もみせてもらった。

この小さな町の特徴は、多くの国際的なスポーツイヴェントがしばしば開かれることだ。我が家の前は山で、冬はアルペンスキーの初級者、中級者、上級者を迎え入れることが出来るゲレンデだ。ここでは上級者用のゲレンデで、ときどきアルペンスキーの国際試合も行われる。勿論、スノーボードも可能。

このゲレンデは夏はマウンテンバイクの国際試合用のコースとなる。夏には、色とりどりの帽子を被ったレーサーが、そこここに見受けられ、自転車のロードレースも行われる。山あり、林あり、湖ありのこの地は、無数のゴルフ場も点在し、我が家の前はPGAツアー仕様のゴルフ場で、我が家はその10番ホールに庭がせっしている。ゴルフボールが庭に飛び込んでくるのは、日常茶飯事だ。

さて、本題のお馬。この色々な国際試合を執り行う風光明媚な町にオリンピックを、、、、と願ったのがこの初代市長。彼の夢で、国際馬術競技が行えるオリンピック仕様のスタジアムが、我が家から車で数分のところに開かれ、ついに1976年のモントリオールオリンピック開催時には、障害及び馬術競技の会場として、世界の乗馬競技の選手や乗馬愛好家がこの町に集結した。

町を車で走っていると、牧場や乗馬場が多く、路上にも調教馬、散策馬などが、緑の自然の中に、日常的に目に入る。「美しいなあ~~!!」とその光景に見入ることも度々。そして、今でもこの国際馬術競技場に隣接した厩舎によく遊びに行く。そこには度々大試合で金賞をとったチャンピョン馬も入厩していて、間近でシゲシゲとそのピカピカに磨かれた綺麗な馬体を見るチャンスがある。

私の以前のブログ「テツママの8ヶ国語喋る子供の育て方」を読んでいた人なら、私がここに家を買うと決めた日の衝撃的な馬との出会いを記憶している人も居るかもしれない。とにかく、この町で、夏は緑の中を颯爽と走る馬に、秋は紅葉の中を犬を連れて狐狩り出かける馬群に出会うことが多いのだ。

そしてここで、日常的に馬と触れ合って居る内に、私は遥か昔、スピードシンボリという馬に夢中だった自分を思い出した。どうして夢中になったのか??というと、この馬は、大器晩成という言葉がびったりの5歳からまさに活躍した馬で、当時では珍しく海外遠征に目をむけ、アメリカ、イギリス、フランスに遠征した馬だったからだ。

残念ながら海外では好成績を残すことはできなかったが、果敢に世界に挑んだ彼と彼の陣営の姿は、まさにこのころ、「一人ででもいいから、アメリカへ行ってみたい!!そして、広い世界をしりたい!!」と夢みていた私の憧れ的存在だったのだ。彼の良きライバルとして当時君臨していたのは、アカネテンリュウという馬で、牝馬同士ではないが、まさに、現在のウオッカとダイワスカーレットのように、良きライバルだった。

彼は5年連続で有馬記念出走という快挙を成し遂げ、8歳で引退し、その後、私は自分の人生の大きな転機続きで、正直、馬に目を向けるなどという余裕はなくなった。だからその時はただ、ミーハー的に一過性の熱を上げただけで終わった。

しかし、このカナダの東部に居を移し、日常的に馬に接し、改めて馬にも深い興味を抱くようになり、息子にも乗馬を習わせるようになった。そして、その練習についていくうちに、練習馬場に隣接した厩舎の中で多くの人々が大切に大切に馬を洗ったり、世話をしている姿が自然に目に入り、みんな大変な愛情をもって、馬達と日々を過ごしていることに気がついた。

そこで、少し色々な馬に関する本を読んでいくうちに、一頭のカナダ産の素晴らしい馬が、近代の世界のサラブレッドの歴史に大きな影響を及ぼしていることを知った。その馬の名前は「ノーザンダンサー」。この馬のオーナーは、偶然にも、息子の大学の先輩で、卒業後、ビジネスで大成功をおさめ、モントリオールの大富豪の一人となった。

彼は当時、カナダの馬産があまりパッとせず、カナダの馬は世界的に通用していないことに気づき、生まれ故郷のオンタリオ州に戻って、トロント郊外に牧場を開設した。始めはカナダ産同士の馬をかけ合わせて繁殖していたが、なかなか強い馬を出すことができず、ヨーロッパの馬やアメリカの馬とかけ合わせ、ついに世界のサラブレッドの歴史に大きな足跡を残す、「ノーザンダンサー」という馬を生み出すことに成功したそうだ。

ノーザンダンサーの輝かしい戦績は言うまでもないが、更に凄かったのはその血統の繁栄。今、世界の最強馬の先祖をたどっていくと、父系又は母系でほとんど「ノーザンダンサー」に突き当たるほど、素晴らしい子孫を多数排出した。当時、ノーザンダンサーの血の一滴はダイヤモンドの一カラット以上の価値があるとまで言われた彼が、今から50年程前に、我が家からわずか車で2時間ほどのところでEPテイラーという馬産家によって大切に産み出されたことをしり、私は大いに馬の血統なるものに、興味を抱き始めた。

そして、最初に私に馬というものを大きく印象づけてくれた、スピードシンボリこそが、ディープインパクトの前に最初の無敗のクラシック3冠馬となった、あの皇帝シンボリルドルフのおじいちゃんだったことを知り、驚喜した。

スピードシンボリは皇帝シンボリルドルフの母以外には種牡馬として、特筆すべき馬を排出していないが、8歳まで5年連続有馬記念に出走という快挙をなしとげ、当時としては珍しくタフな、イギリス、フランス、アメリカにまで遠征し、老いてから排出した彼の娘がこのシンボリルドルフの母として、最後に父親に大きな勲章を贈ってあげたことを知って、ほのぼのとした気持ちになった。

それからの私は、カナダから日本の競馬や世界のレースに注目するようになり、レースを観る前には、参加馬の血統が気になって調べ、時にはその血のロマンに感動し、魅了されるようになった。

父娘でダービーを制覇したタニノギムレットとウオッカ。お父さんのギムレットというお酒より、ウオッカの方が何倍も強く、そして、タニノという冠名をあえて外した訳は、なにも混ぜず、ストレートのお酒の方がより強いからストレートにウオッカと名付けたというオーナーの粋なネーミングのエピソードを知ったり、直前の状態、厩舎の人々の熱き思いなどを調べたり読んだりしてから、レースを見ると、本当に数倍楽しくなる。

そして、珠玉のようなサラブレッドを世に送り出すために、日夜、見えないところで細心の努力を払っている人々に思いをはせると、時には、レース後、ジーンとするときがある。

つい先週の日曜日にも、なかなかG1を勝てなかったローレルゲレイロが、父キングヘイローが苦労の末に初めて制した高松宮記念を、奇しくも父と同年齢で制覇したという、「ヘイロー父ちゃん、僕もやったよ!!」というニュースの見出しを読んで、ほのぼのとした気持ちになった。

実は女同士として、スリープレスナイトをひそかに応援していたんだけど、彼女も病気休み明けで、連対は外さず実力を出したし、上村騎手も素晴らしい騎乗をしたそうだから、素直にローレルゲレイロを称えたいと思った。

こうして、息子は人間の遺伝子に、母の私は馬の遺伝子にそのロマンを求め、私は、17世紀の欧州から脈々と引き継がれている、そのサラブレッドと人間の苦闘と愛の歴史を紐解いて、大いに楽しんでいる。

馬に興味のない人々には退屈な時間かもしれないけど、まあ、この変人テツママの独り言にこれからも時々お付き合いをよろしく、、、、。

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