2009年5月8日金曜日

気骨の人(4)エルビスプレスリー

しばらく、ブログご無沙汰しました。実はナッシュビル、メンフィス、ケンタッキーへ旅行中でした。丁度、ゴールデンウイークで帰宅中の息子と約半年前からの予定の旅行。今回のテーマは「音楽の旅」。ところが、そこに、とんでもない「お馬の旅」まで加わり、合計1300キロぐらいをレンタカーで走破。「お馬の旅」は又別の回にご紹介することとして、今回はエルビスプレスリーに焦点をあて、ご紹介しましょう。

ナッシュビルといえば、オールドファンも多い、カントリーミュージックの生誕の地。市全体が「音楽都市へようこそ」という看板で溢れ、どこでもカントリーミュージックの生演奏が楽しめる親しみに溢れた田舎スタイルの市。エルビスとも関係深い都市だ。

そこから車で約4時間離れたところ、メンフィスに、20世紀最大のスター歌手といっても過言ではない、あの「エルビスプレスリー」が住んだ家、「グレースランド」がある。我々の今回の旅行の目玉とも言えるこのグレースランドへの訪問旅行は、ナッシュビル到着の翌々日(翌日は地元の探索、食料の仕入れと白血病チャリティーを掲げたカントリーミュージックのライブディナーショーに参加)の早朝から始まった。

朝、4時起床、5時ホテル出発。一路メンフィスへ。実は若い頃、エルビスの映画にも歌にも実によく触れていたが、何となく気障で、あまり好きではなかった。しかし、その歌唱力とカリスマ性、エンターテイナーとしての一流の資質は当時でも認めざるを得なかった。

しかし、歳を重ねるにつれ、不思議と彼の甘い、癒されるようなソフトな歌声に懐かしさを超えた暖かさを感じ始め、興味を深めるようになった。そして、彼の青春時代を過ごしたメンフィス、多くのレコーディングをした、ナッシュビルをぜひ訪問してみたいと思うようになった。

メンフィスは本当に田舎だった。もし、彼の偉業がなかったら、メンフィスはこれ程までに注目を集めることは絶対になかっただろう。それほど、今でもエルビス一色といっても過言ではない、小さな小さな町に見える。グレースランドの前の道は生前から「エルビスプレスリーロード」と名付けられ、車キチガイの彼はよくこの道で、ファンも交えレースをして遊んだそうだ。このグレースランドは今、アメリカの国定史跡に指定されている。

彼の偉大さは、ギネスブックでいったいいくつ彼が世界記録をもっているか、皆さん自身でお調べになったらお分かりになると思う。とにかく、彼の家(マンションと呼ばれている母屋)、離れの運動施設(今は彼のステージ衣装とゴールド、プラチナレコードの展示場)、愛車の博物館(高級車とハーレーなどのオートバイで一杯)、エルビス記念館、愛用の飛行機リサマリー号(彼の娘の名前)他自家用ジェットの展示場などをみれば、桁違いの大物であったことが一目瞭然。

何しろ博物館だけで4つ、お土産販売店だけで9カ所、その他、彼のヒット曲、「ハートブレークホテル」にちなんで名付けられた同名のホテル、レストラン、牧場などを含めたら広大な場所で、ツアー時間は大体4時間と聞いていたが、なんと我々は、朝8時45分から、午後3時半ごろまで、グレースランドに居た。

これ程長く居ても、まだこのホテルの中などは、見ていない。次のサンスタジオもぜひ見たかったからだ。サンスタジオはエルビスが最初に4ドル自腹を切ってレコーディングをし、後にこのスタジオのオーナーに見いだされた歴史的な場所。その最初の録音された声も聴けた。ちなみに、彼は母親にプレゼントするため、このレコーディングを思いついたのだそうだ。

彼の歌は、ロック、ブルース、ゴスペル、カントリーそれぞれのミュージックを混合したような独特のフィーリングを聴くもの全てに与えた。そして、白人文化、黒人文化とさらに異文化を取り入れたエルビスの歌声はアメリカという国そのものを象徴しているような、彼独自の世界だった。

その類い稀なる歌唱力は、紆余曲折を経て、アメリカ人の誇る、象徴的な歌手として今日まで、賞賛され続けている。ちなみに小泉前首相もブッシュ前大統領に案内され、この地を訪れたそうだ。エルビスと誕生日が偶然同じ小泉前首相もエルビスの大ファンの一人とか。アメリカの象徴的大歌手に敬意を払い、訪れたのだそうだ。

勿論、初期のエルビスのセクシーな腰を振るアクションは、当時のおかたい人々にショックと拒絶感を与え、センセーションを巻き起こし、多くの番組で批判を浴びた。しかし、当時の人気番組、エドサリバンショーのエドサリバンにその実力を賞賛された彼は、その後、押しも押されもせぬ大スターへの道を歩んでいった。

でも私が彼に、最も惹かれている点は、その飾らぬ庶民性にあった。巨万の富に恵まれ、毎日100万ドル(当時)使っても使い切れないほどの大金持ちになっても、彼は彼の独特の哲学によって行動し、大切なものを見失うことなく、両親への遺言文や娘への遺言文にその揺るがぬ独自の哲学を記し、残していた。

そんなエルビスの人間性に溢れたエピソードをご紹介すると、彼はガードマンの一人が亡くなったとき、どうしても葬儀に参加したいと希望し、混乱を避けるため、地元の警察官の中にまじり、警官の服装をして葬儀に参加したことがあったそうだ。

又、娘の4才の誕生日のプレゼントをなににするか迷いに迷ったあげく、父の永遠の愛を込めた手紙を準備して、彼の意志を伝えることとした。この手紙はリサマリー(エルビスの娘)の最高の宝物として、未だに誇らしく展示されている。

ギネスブックに載っている彼の世界記録の一つに、「死後、世界にもっとも多くファンクラブを残しているスター」というのがあるそうだ。まだ480以上もの活動を続けているエルビスのファンクラブが世界中に存続している。これらのファンクラブやその他のエルビスのファンの寄付によってのみ運営されている病院がメンフィスにはある。1977年に死没した彼。30年以上過ぎた今でもこの愛され方は、彼の素晴らしい人間性なくしてはあり得ないだろう。

彼はしばしば、バックコーラスに黒人を使った。当時のショーのプロモーターはエルビスに「バックコーラスの黒人は呼ばない」と伝えた。その度にエルビスは、「では、私もショーに出ない」とプロモーターに伝えた。驚いたプロモーターは、何度も謝り、ショーへの出演料を積み上げたそうだが、エルビスが首をたてに振ることは二度となかったそうだ。

彼は一発レコーディングを常によしとし、途中でやり直すことを好まなかったため、まだまだ、未発表の遺作がかなりあるそうだが、こんなところにも筋を通すかれの意地と努力が垣間見える。映画監督の話しでは、エルビスはとても頭の良い人で、映画の撮影でも台詞を実によく覚えており、映画ではジェームスディーンを尊敬し、こよなく愛した彼の憧れの映画人だったそうだ。

晩年彼はナッシュビルのRCAスタジオBでよくレコーディングをしており、私も訪れた。そして、彼がそこで、レコーディングをしたオリジナル版の歌声に酔いしれた。彼は、時空を超えて我々の胸の中に居た。

その見学ツアーに参加していた人々は一様に、古い昔の世界を懐かしみ、彼と共に過ぎ去った日々を思い出しているようだった。時にはうっとりと、時には激しいリズムに体を揺らし、どっぷりとエルビスの世界に浸っていた。世代を超えて、時代を超えて、さらに現代に引き継がれるエルビス独自の世界。

ちなみに、彼の記録のひとつに、「ロック、ブルース、ゴスペル、カントリーすべての音楽分野で賞をとっているのは、世界中で彼一人」というのがあるそうだ。アメリカの若者の中でもっとも活躍した10人の一人にも選ばれたことがあるエルビスプレスリー。42才で天国に召された偉大なるミュージシャンのあまりにも若すぎる死を心から残念に思う。