2009年4月23日木曜日

気骨の人(2)ポール・ニューマン

2008年9月、一人の男優が世界中から惜しまれつつこの世を去った。彼の名前はポール・ニューマン。私の大好きな映画人の一人。彼も俳優、監督、政治家、レーサーなど多くの顔をもっていたが、常にその行動は自身の強い信念に裏打ちされた、誠実なものであった。

ユダヤ系の両親の下、経済的には裕福な家庭で少年期を過ごした彼は、子供時代脆弱で、いじめっ子の標的となっていた。そんな息子を案じた母が彼に演劇への道をすすめたが、その当時の彼には熱中できる道ではなかった。

後に彼はオハイオ大学在学中に第二次世界大戦が勃発、空軍に入隊、ハワイに派遣される。終戦後オハイオ大学を卒業。その後、ケニヨンカレッジに入り、フットボールに熱中したが、素行が悪く追放されてしまう。

その頃から彼の胸には、演劇の世界への強烈な興味が湧き始め、演劇講師の道を目指しイェール大学の大学院へ進学。つまり、彼の後の演技も演技論もけっしてありきたりの努力の末に到達した頂点ではなく、少年時代に両親が開いた道を真剣に自身の足で、歩き続けた結果だったのだ。

この時、本格的に演劇の道を目指すため、彼は学費を捻出しなければならず、亡き父の残したスポーツ用品店を売り払い、退路を断って自身の目指す道に突き進んだ。

俳優としての彼は、地方のドサ回りも経験。決してポッとすぐにスポットライトの下に立てた幸運児ではなかったが、諦めることなく、自身の優れた観察力と地道な努力で舞台に立ち続けた。

そんな彼に舞台で初の大役「ピクニック」の主役が舞い込み、その熱い演技がワーナー・ブラザーズの目にとまり、5年契約が結ばれた。この頃、期待の俳優は「アクターズ・スタジオ」に入れ演技を磨くといわれた名優への登竜門。ここで演技を磨き始めたころから、彼の役者としての表舞台への門が開かれてきた。

当時の同期生はマーロン・ブランド、ジェームス・ディーンという錚々たるメンバー。しかし、ここでも、まずスポットがあたったのは、ジェームス・ディーン。そして、同期のマーロン・ブランドも着々と大スターへの道を歩み始めたが、彼の評価はマーロン・ブランドのコピーという厳しい評価。

勿論、反逆児の彼がこんな評価に満足するはずはなく、失望して一時は投げやりとなっていた彼の作品は駄作ばかりと酷評されていた。そんな彼に思いがけず巡ってきた主役の座は、なんと皆様もご存知のあのジェームス・ディーンの悲劇の事故が原因。

ジェームス・ディーン主役で撮影が予定されていた「傷だらけの栄光」の主役に、文字通り、傷だらけで挫折を繰り返しながら挑んだポール・ニューマンの迫真の演技。このストーリーは実在するボクサーの伝記だったが、彼はこのボクサーの話し方、癖、動作すべてを細かく観察し、忠実にその実在の彼を再現させてみせた。

その演技に対する真摯な情熱が絶賛を浴び、彼は一躍、ポール・ニューマンの世界を創り上げていった。いつも役になり切れるまで研究に研究を重ねる学究派の彼は、「ハスラー」でも、「ル・マン」でも、徹底的に役にのめり込んでいった。

その結果、彼は「ル・マン」で演じたレーサーという仕事にすっかり魅了され、自身のチームを作り上げ、自動車レースにも参戦し好成績を残した。この時すでに40歳を過ぎていたポール・ニューマン。彼の夢を追う姿に年齢は関係ないのかもしれない。

私生活では不遇時代一度結婚に失敗しているが、その後再婚した奥さんとの間に6人の子供を授かり、昨年この世を去るまで50年以上も鴛鴦夫婦と評判で、「家でステーキを食べられるのに、どうして外でハンバーグを食べるの??」と家庭を大切にする良き夫の幸せを表現していた。

そんな幸せな家庭生活から生まれたのがポール・ニューマン家独自の味、美味しいサラダドレッシング。彼はこれを世に広め、多くの人に味わってもらうために食品会社を設立。世界中で大当たり。ビジネスマンとしても栄光に包まれた。このドレッシングはパスタやサラダに最高だそうだ。

そんな彼の家庭生活もいいことばかりではなかった。彼の道を共に歩んでいた息子の麻薬中毒での突然の死。彼はひとときのショックから立ち直ると、息子の名前を冠した基金会を設立し、麻薬撲滅をテーマとした映画製作やテレビ製作などの製作資金を援助し、助成金を贈ることによって息子の死を無駄にせぬよう、麻薬撲滅運動に参画し続けた。

サラダドレッシング販売で大成功した食品会社のすべての利益は、貧困で勉強できぬ子供達に贈られ、政治家としては、ベトナム戦争反対や公民権運動をたからかに叫ぶことによって、人気俳優の影響力を大いに世界中の人々に役立てたポール・ニューマン。自身もいじめを受けた幼少期の人種差別の思い出なども彼をこうした政治活動に走らせた原因となったのだろう。

俳優として、監督として、3回のアカデミー賞受賞を果たし、押しも押されもせぬ人気スターとなったポール・ニューマンは、当時まだ、日本では外国人スターをCMに起用すること自体が珍しかった時代に、日産自動車のCMで、日本人のお茶の間にも進出した。 当時彼の宣伝した車は彼の名前のモデルとして、未だに存在するそうだ。

私に鮮烈な印象を残している彼の作品はみっつ。「ハスラー1と2」、そして「タワリング・インフェルノ」。ハスラーでは「人間にとって真の勝利とは??敗北とは??」と問いかける孤高のギャンブラーを素晴らしいビリヤードの世界で描いてみせた。その憂愁を帯びた青い瞳でキューの先を見つめる彼の真剣な眼差しに私は大いにしびれた。

この映画は、ポール・ニューマンが初めて彼独自の演技の深さを映画人すべての人々に納得させ、決してジェーム・スディーンやマーロン・ブランドの物まねスターではないことを認めさせた出世作ともいえる。

三つ目の「タワリング・インフェルノ」は、実在のサンフランシスコのタワーをモデルに似通った内容の原作が二つ発表され、奇しくも同じ時期に、ワーナー・ブラザースと20世紀フォックスで、映画製作企画が持ち上がり、あまりにも内容が似ているので、両映画会社が協議し、共同制作した映画。

ワーナーでは、主演にポール・ニューマンを考えており、20世紀フォックスでは、当時人気を二分していたスティーブ・マックイーンを主役候補に選んでいたので、ファンには堪らぬ、両雄の映画対決となった作品。

高層ビルの大火災の撮影技術が見事で、最後の大爆発までハラハラドキドキする恐怖が続き、この頃から、パニック映画というジャンルが人気をはくすようになっていった。

最後のエンドロールでは、この2大スターのどちらの名前を先に出すかという問題が物議をかもし、結局同列配列という苦肉の策を選ばせた程、両雄相譲らぬ力作であった。

数々の栄光と挫折を繰り返し、その心の赴くままにポール・ニューマン独自の演技を追い求め、常に恵まれぬ子供達に愛を注いだ気骨の人。その憂いを帯びた青い目に出会えたことは私の若き日の大切な思い出。いつまでもその名作とともに私のみならず世界中の人々を魅了し続けることだろう。

最後に気骨の人ポール・ニューマンの面目躍如。アメリカ政府の高額所得者への減税政策案が発表された時の彼の一言をご紹介して、このページを閉じよう。

「私のような大金持ちから、高い税金を取らぬ政府はオオバカだ!!」

ブラボー!!ポール・ニューマン。いつまでも語り継がれる名優よ、安らかに!!