2009年4月27日月曜日

気骨の人(3)オードリー・ヘップバーン

男優二人の気骨の人をご紹介したので、ここでは、私の好きな女優で気骨の人を描いてみよう。彼女の映画又は舞台の作品を一本も観たことがない人というのは、多分少ないだろう。若い人でもおそらく再放送又はCMで彼女の妖精のような、愛らしい魅力に遭遇しているはずだ。

なぜなら、2007年11月3日、日本で放送された「スマステ」の特別企画、「大人が選ぶ映画のヒロインベスト30」でも、彼女が演じた「ローマの休日」のアン王女が堂々の1位に選ばれているぐらいなんだから。彼女がアメリカのパラマウント映画と契約し、初めて主演したこの「ローマの休日」、私も最低3回は観ている。

彼女は1953年以前にもアメリカ以外で色々な演劇活動をしていたが、まだあまり頭角を表していなかった。しかし、この年、彼女は初めてアメリカで「ローマの休日」に出演し大当たり。

この映画の素晴らしさと感動は本当に何度みても、薄れるどころか益々私を惹きつける。毎回、観るたびに、恋をあきらめ王女に戻り、新聞記者質問会にのぞむ王女役のオードリー・ヘップバーンがその大きな魅力的な瞳にうっすらと涙をうかべつつ、恋人に毅然とした態度で別れを告げるシーンは、涙なしには観られない。

彼女ほど、この役がぴったりする過去を背負っている女優もあるまい。まさに他の誰にも演じられない、オードリー・ヘップバーンのみが到達できる世界だったように思う。

ストーリーの中で、一人の若い女性として、ローマの数々の名所を相手役グレゴリー・ペック演じる新聞記者と活き活きと遊びまわる彼女。そして、宿命を自覚し、宮殿に戻り、王女として、気品溢れる毅然とした態度で謁見する見事な演技。まさに、貴族の血(彼女の母はオランダの貴族出身)を引く、気品溢れるオードリーならではの世界。

彼女はこの「ローマの休日」で、一躍人気映画スターの仲間入りをしたばかりでなく、その年のアカデミー賞主演女優賞他多くの映画賞を総なめにした。

しかし、その直後、数々の映画の企画を作り上げ、オファーしたパラマウント映画他映画界の強い要請に答えることなく、オードリー・ヘップバーンはブロードウェイの舞台「オンディーヌ」への出演を熱望し、映画会社の反対を押し切る形で、舞台に没頭した。

こんなところにも、自身の信じる道を行くオードリー・ヘップバーンという女優の非凡な気骨を感じる。結果的にはこの舞台「オンディーヌ」で、舞台役者最高の栄誉、トニー賞を獲得し、更に彼女の女優としての評価を高めることとなった。

その後の彼女は、映画では、サスペンスコメディー、ミュージカル、ヒューマンドラマなど、ジャンルを問わず多くの作品に登場し、その美貌と気品と素晴らしいファッションセンスで多くのファンを魅了し続けた。

相手役にはグレゴリー・ペック、ハンフリー・ボガード、ウイリアム・ホールデン、ゲーリー・クーパー、ヘンリー・フォンダ、メル・ファーラー、ケーリー・グラントなどなど、錚々たるイケメン俳優、多彩な男優を相手にし、クラシックバレーで鍛えた見事なスタイルでしゃれたファッションを着こなした。

当時、ヘップバーン刈り、サブリナパンツなどその着こなしでファッションリーダーとしても大いに当時の女性に影響を与えた彼女は、少女期に6年間オランダでクラシックバレーを習得後、イギリス、フランス、イタリアなどを公演してまわったクラシックバレーのプロでもあり、その華奢ながらバレーで鍛えた素晴らしいスタイルで、ファッションの世界でも独特の彼女の世界を作り上げた。

少女時代、アイルランド系イギリス人の父親はオランダ出身の母親と政治的意見を異にし、ファシズムに走り、家庭を捨てた。両親の離婚後、オランダに渡ったオードリー・ヘップバーンは時にはチューリップの球根を食べて飢えをしのぐほどの貧困の中、クラシックバレー公演で稼いだお金で家庭を支えたばかりではなく、ナチスドイツに反抗する同志を助け、資金を援助した。

そんな、苦しい悲しい悲惨な過去を忘れられず「アンネ・フランク」の伝記映画の主役のオファーが来たときには、「生々しい過去を思い出し、辛くなるから」という理由で、辞退している。

当時、ドイツ占領下にあったオランダでの苦しい生活の思い出は、映画人を引退した後、彼女をユニセフの活動に参加させる強い動機となった。「ソマリアやスーダンで飢えと貧困に苦しむ子供達は、まさに少女時代の私自身の姿」。

「だから、私が子供達に救いの手を差し伸べるのは当たり前」と述べて、晩年積極的にユニセフの活動を続けたオードリー・ヘップバーン。再婚後(イタリアの医者)、子育て時代には人気絶頂のスターの座を惜しげもなく捨て、家庭を大切に守った信念の人。

ファッションといえば、当時の私も彼女の素晴らしいファッションに大いに魅了された一人。ジバンシーという日本ではまだあまり知られていなかったフランスのデザイナーの手腕を高く評価し、彼女の映画の専属デザイナーとして腕をふるったジバンシーの衣装を颯爽と着こなし、スクリーンに登場。

その衣装は、一見平凡で、特に変わったところはないのに、よく見ると実に素敵なカットや切り替えで、シンプルな中に気品溢れるデザインだった。当時、ケネディ家の女性のお気に入りのデザイナーの一人で、故ケネディ大統領の葬儀の際、ケネディ家の女性がジバンシーの喪服で葬儀に参列したのは有名なエピソード。

その頃から今まで、私のお気に入りのデザイナーは衣装なら、ジバンシーとハーディエイミス(英国王室の専属デザイナーでエリザベス女王お気に入りのオートクチュール専門のデザイナー)。小物ならバーバリーかな??エルメスやプラダ、シャネルなどにはあまり興味が湧かない。但しお気に入りのみ。要するに観るだけ。先立つものがない庶民故、無駄遣いはしていない。

ともあれ、星の数ほどあまた居る世界の芸能人の中で、アカデミー賞(映画)、トニー賞(舞台)、エミー賞(テレビ)、グラミー賞(音楽)の4部門をすべて制覇した俳優は男女合わせてわずか9名。その中の一人が彼女。死を迎えるまで、自身の信念を通し、自分の生き方をしっかり守り、その姿を通して、世界の人々に素晴らしい夢を贈り続けた気骨の人。

「戦争と平和」、「麗しのサブリナ」、「シャレード」、「マイフェアレディ」などなど、彼女主演の名作をあげればきりがないオードリー。そのストーリーの素晴らしさとともに、世代を超えてこの女が、これからも世界中の人々を魅了し続けることは疑う余地がない。

貴女をイメージしてヘンリー・マンシーニが作曲した名曲「ムーンリバー」の甘いメロディーと共に、妖精のようなキュートで気品溢るる貴女を、私もいつまでも忘れない。スイス・ローザンヌに眠る妖精オードリーよ、安らかに、、、、。

2009年4月23日木曜日

気骨の人(2)ポール・ニューマン

2008年9月、一人の男優が世界中から惜しまれつつこの世を去った。彼の名前はポール・ニューマン。私の大好きな映画人の一人。彼も俳優、監督、政治家、レーサーなど多くの顔をもっていたが、常にその行動は自身の強い信念に裏打ちされた、誠実なものであった。

ユダヤ系の両親の下、経済的には裕福な家庭で少年期を過ごした彼は、子供時代脆弱で、いじめっ子の標的となっていた。そんな息子を案じた母が彼に演劇への道をすすめたが、その当時の彼には熱中できる道ではなかった。

後に彼はオハイオ大学在学中に第二次世界大戦が勃発、空軍に入隊、ハワイに派遣される。終戦後オハイオ大学を卒業。その後、ケニヨンカレッジに入り、フットボールに熱中したが、素行が悪く追放されてしまう。

その頃から彼の胸には、演劇の世界への強烈な興味が湧き始め、演劇講師の道を目指しイェール大学の大学院へ進学。つまり、彼の後の演技も演技論もけっしてありきたりの努力の末に到達した頂点ではなく、少年時代に両親が開いた道を真剣に自身の足で、歩き続けた結果だったのだ。

この時、本格的に演劇の道を目指すため、彼は学費を捻出しなければならず、亡き父の残したスポーツ用品店を売り払い、退路を断って自身の目指す道に突き進んだ。

俳優としての彼は、地方のドサ回りも経験。決してポッとすぐにスポットライトの下に立てた幸運児ではなかったが、諦めることなく、自身の優れた観察力と地道な努力で舞台に立ち続けた。

そんな彼に舞台で初の大役「ピクニック」の主役が舞い込み、その熱い演技がワーナー・ブラザーズの目にとまり、5年契約が結ばれた。この頃、期待の俳優は「アクターズ・スタジオ」に入れ演技を磨くといわれた名優への登竜門。ここで演技を磨き始めたころから、彼の役者としての表舞台への門が開かれてきた。

当時の同期生はマーロン・ブランド、ジェームス・ディーンという錚々たるメンバー。しかし、ここでも、まずスポットがあたったのは、ジェームス・ディーン。そして、同期のマーロン・ブランドも着々と大スターへの道を歩み始めたが、彼の評価はマーロン・ブランドのコピーという厳しい評価。

勿論、反逆児の彼がこんな評価に満足するはずはなく、失望して一時は投げやりとなっていた彼の作品は駄作ばかりと酷評されていた。そんな彼に思いがけず巡ってきた主役の座は、なんと皆様もご存知のあのジェームス・ディーンの悲劇の事故が原因。

ジェームス・ディーン主役で撮影が予定されていた「傷だらけの栄光」の主役に、文字通り、傷だらけで挫折を繰り返しながら挑んだポール・ニューマンの迫真の演技。このストーリーは実在するボクサーの伝記だったが、彼はこのボクサーの話し方、癖、動作すべてを細かく観察し、忠実にその実在の彼を再現させてみせた。

その演技に対する真摯な情熱が絶賛を浴び、彼は一躍、ポール・ニューマンの世界を創り上げていった。いつも役になり切れるまで研究に研究を重ねる学究派の彼は、「ハスラー」でも、「ル・マン」でも、徹底的に役にのめり込んでいった。

その結果、彼は「ル・マン」で演じたレーサーという仕事にすっかり魅了され、自身のチームを作り上げ、自動車レースにも参戦し好成績を残した。この時すでに40歳を過ぎていたポール・ニューマン。彼の夢を追う姿に年齢は関係ないのかもしれない。

私生活では不遇時代一度結婚に失敗しているが、その後再婚した奥さんとの間に6人の子供を授かり、昨年この世を去るまで50年以上も鴛鴦夫婦と評判で、「家でステーキを食べられるのに、どうして外でハンバーグを食べるの??」と家庭を大切にする良き夫の幸せを表現していた。

そんな幸せな家庭生活から生まれたのがポール・ニューマン家独自の味、美味しいサラダドレッシング。彼はこれを世に広め、多くの人に味わってもらうために食品会社を設立。世界中で大当たり。ビジネスマンとしても栄光に包まれた。このドレッシングはパスタやサラダに最高だそうだ。

そんな彼の家庭生活もいいことばかりではなかった。彼の道を共に歩んでいた息子の麻薬中毒での突然の死。彼はひとときのショックから立ち直ると、息子の名前を冠した基金会を設立し、麻薬撲滅をテーマとした映画製作やテレビ製作などの製作資金を援助し、助成金を贈ることによって息子の死を無駄にせぬよう、麻薬撲滅運動に参画し続けた。

サラダドレッシング販売で大成功した食品会社のすべての利益は、貧困で勉強できぬ子供達に贈られ、政治家としては、ベトナム戦争反対や公民権運動をたからかに叫ぶことによって、人気俳優の影響力を大いに世界中の人々に役立てたポール・ニューマン。自身もいじめを受けた幼少期の人種差別の思い出なども彼をこうした政治活動に走らせた原因となったのだろう。

俳優として、監督として、3回のアカデミー賞受賞を果たし、押しも押されもせぬ人気スターとなったポール・ニューマンは、当時まだ、日本では外国人スターをCMに起用すること自体が珍しかった時代に、日産自動車のCMで、日本人のお茶の間にも進出した。 当時彼の宣伝した車は彼の名前のモデルとして、未だに存在するそうだ。

私に鮮烈な印象を残している彼の作品はみっつ。「ハスラー1と2」、そして「タワリング・インフェルノ」。ハスラーでは「人間にとって真の勝利とは??敗北とは??」と問いかける孤高のギャンブラーを素晴らしいビリヤードの世界で描いてみせた。その憂愁を帯びた青い瞳でキューの先を見つめる彼の真剣な眼差しに私は大いにしびれた。

この映画は、ポール・ニューマンが初めて彼独自の演技の深さを映画人すべての人々に納得させ、決してジェーム・スディーンやマーロン・ブランドの物まねスターではないことを認めさせた出世作ともいえる。

三つ目の「タワリング・インフェルノ」は、実在のサンフランシスコのタワーをモデルに似通った内容の原作が二つ発表され、奇しくも同じ時期に、ワーナー・ブラザースと20世紀フォックスで、映画製作企画が持ち上がり、あまりにも内容が似ているので、両映画会社が協議し、共同制作した映画。

ワーナーでは、主演にポール・ニューマンを考えており、20世紀フォックスでは、当時人気を二分していたスティーブ・マックイーンを主役候補に選んでいたので、ファンには堪らぬ、両雄の映画対決となった作品。

高層ビルの大火災の撮影技術が見事で、最後の大爆発までハラハラドキドキする恐怖が続き、この頃から、パニック映画というジャンルが人気をはくすようになっていった。

最後のエンドロールでは、この2大スターのどちらの名前を先に出すかという問題が物議をかもし、結局同列配列という苦肉の策を選ばせた程、両雄相譲らぬ力作であった。

数々の栄光と挫折を繰り返し、その心の赴くままにポール・ニューマン独自の演技を追い求め、常に恵まれぬ子供達に愛を注いだ気骨の人。その憂いを帯びた青い目に出会えたことは私の若き日の大切な思い出。いつまでもその名作とともに私のみならず世界中の人々を魅了し続けることだろう。

最後に気骨の人ポール・ニューマンの面目躍如。アメリカ政府の高額所得者への減税政策案が発表された時の彼の一言をご紹介して、このページを閉じよう。

「私のような大金持ちから、高い税金を取らぬ政府はオオバカだ!!」

ブラボー!!ポール・ニューマン。いつまでも語り継がれる名優よ、安らかに!!

2009年4月22日水曜日

気骨の人(1)クリント・イーストウッド

これからしばらく、私の好きな気骨の人シリーズをご紹介!!まったく個人的な好き嫌いの世界だから、多分独断と偏見に満ちていると思うけど、、、、。まず最初の人は、まもなく(4月25日から)監督・主演映画「グラン・トリノ」が公開となる、私の大好きな映画人の一人、クリント・イーストウッド。

私が初めて彼を観たのは、映画ではなく、テレビでだった。まだ、中学生ぐらいだっただろうか。「ローリンローリンローリン、ローリンローリンローリン、ローハイド!!イヤ~~~ッ!!」というテーマミュージックが流れ、長い鞭を振るい、荷馬車(?)を疾走させ、颯爽と荒野を駆け抜けて行く荒くれ者のカーボーイ姿の彼が登場。

7年間続いた人気シリーズ「ローハイド」の中の彼は、まだアメリカの連続ドラマそのものが珍しかった当時の私に本当に鮮烈な印象を与えた。

細面のそれでいて野性味に溢れた若き日のクリント・イーストウッド。彼は、このテレビの演技でイタリアの監督、セルジオ・レオーネに見初められ、「荒野の用心棒」他、立て続けにマカロニウエスタンの主役をつとめ、アメリカの俳優ながら、ヨーロッパでの人気の方が先行した人。

その後出あったドン・シーゲル監督とのコンビで製作された「ダーティハリー」の型破りな刑事役で、人気アクションスターの地位を不動のものとし、「ダーティハリー」は4作品製作され、彼の代表作のひとつとなった。

彼の家系は名家ながら、子供時代、世界恐慌の煽りを受け、貧しい生活を経験。高校卒業後、朝鮮戦争の最中、陸軍に入隊。除隊後、アルバイトをしながらロスアンジェルスのカレッジで演劇を専攻した苦労人。当時、ユニヴァーサル映画と契約したが、端役ばかりで、1959年にCBCテレビの「ローハイド」で人気をはくすまで、下積み生活が長かったそうだ。

マカロニウエスタンでの成功と、その後アクションスターとして人気を不動のものとしても、彼の映画人としての夢は終わることなく、映画制作会社を設立。1971年に初監督作品を世に出した。その後の彼は、自分の信念に基づく作品のみを地味に製作し続け、自身で監督、主演をしつつ、監督としての経験と地位を築き上げていった。

1992年、彼の役者としての基礎を作り上げてくれた二人の恩師、セルジオ・レオーネ監督とドン・シーゲル監督に捧げる為に監督兼主演で製作した最後の西部劇「許されざる者」で、彼はついに映画人の最高峰、アカデミー賞の監督賞、作品賞を受賞。恩師に最高の栄誉をプレゼントした。

私がローハイド以後、再び彼に大きく心を動かされた作品は、全米で原作がミリオンセラーとなり、上映前から話題となった「マジソン郡の橋」のカメラマン役。これまでの彼とはがらりと違う役柄で、たった4日間の人妻との激しい恋に身を焦がし、生涯その彼女を思い続けるという誠実なカメラマンを演じた彼。

最後の別れのシーンは大雨の中、未練を胸に彼女とご主人の乗る車を追いかけ、信号待ちの短い時間後、心の葛藤を振り切るように、交差点を二台の車が右と左に別れていくシーン。夫の運転する車の中で涙する彼女。このとき初めてメリル・ストリープという名女優に大いに泣かされた。その時のクリント・イーストウッドはもう初老の俳優だったが、渋い、心を揺さぶるような名演技が今でも脳裏を離れない。

「ミリオンダラー・ベイビー」では、永遠のテーマ「安楽死」を扱い、「硫黄島からの手紙」と「父親達の星条旗」では戦争の悲惨さを日米両サイドから描いてみせた。そして、今回の作品「グラン・トリノ」では、人種差別と戦争の悲惨さを朝鮮戦争がえりの一人の偏屈な老人の役で描き出した。

もともとは蔑んでいたアジア人の子供との心の触れ合いを描き、最後には偏屈で閉ざされていた心を開き、この少年のために闘う彼。彼の生涯最後の主演作品として選んだストーリーは、アジア人との心の触れ合いを描いた人種差別にピリオドを打つ内容。

彼が映画の中で大切にしているもののひとつは古いフォードの車、グラン・トリノ。そして、ストーリーの中で自分を嫌いぬく息子が販売しているのは日本車という設定も皮肉だ。

人種蔑視の言葉も多く使われ、物議を醸し出しそうだが、彼が最後の主演作品で言いたかったのは、「心さえ触れ合えば、人種の壁は越えられる!!肉親よりも誰よりも心が触れ合う人こそが、命がけで守らなければならぬ、又、守りたい人なんだ!!」と彼はこの映画で言いたかったのでは、、、、、。これは私の勝手な想像だけど、、、、。

今後、彼は監督業は続けるそうだが、この作品で役者としての自分は葬るらしい。そのためにこのようなテーマの作品を選んだとか。まさに彼の役者魂のすべてを注ぎ込んだ力作に仕上がり、感動できる満点評価を受けているこの作品。私も必ず観ようと思っている。

先日日本で、「チェンジリング」という幼児誘拐に敢然と立ち向かう力強い母親の姿を素晴らしいタッチで描き出してくれた彼の作品を観たばかり。今では、常に話題作を提供し続けている彼も、実は日本の黒澤明監督を崇拝しているファンの一人。

カンヌ映画祭で黒澤監督の姿を見つけた彼。人ごみを掻き分け黒澤監督に近づき、ほほにキスをしながら「貴方が居なかったら今の私はいなかった」とお礼をいったのは有名なエピソード。 真面目で誠実で燃えるような情熱を失わぬ彼の率直な態度。

俳優、監督、音楽家(ジャズ)、ビジネスマン、政治家などなど、多くの顔を持つ彼ももうすぐ79歳。2003年イラク戦争勃発時には、敢然と当時のアメリカ大統領、ジョージ・ブッシュ氏の決定に、「両国は極めて重大な過ちを犯した」と批判したり、同性結婚にも独自の持論を展開するなど、常に話題を投げかけている気骨の人。

1953年に最初の結婚をして以来、離婚、同棲、再婚の過程で7人の子持ち。現在の奥さんは、最初の奥さんとの間に産まれた娘さんと同じ歳で、私生活でも華やかな話題を提供している情熱的で魅力的な彼。これからも役者は無理でも、監督として、大いに心に残る素晴らしい作品を製作してほしい。

まもなく公開の「グラン・トリノ」。皆さんお見逃しなく!!!

2009年4月19日日曜日

無敗のクラシック馬誕生への壁

皆様ご存知のとおり、今年の3歳牡馬クラシック第一弾、皐月賞が終わった。3強の一頭、アンライバルドが、その名の通り「無敵」の強さを発揮し、牡馬クラシック最初の一冠をものにした。

父はサンデーサイレンスの血を引き、母はノーザンダンサーの強い血を継ぎ、親族はダービー馬も含め名馬ぞろいの血統だから、アンライバルドの実力は本物。勝利は少しも不思議ではない。

しかし、「ディープインパクト以来4年ぶりに無敗の皐月賞馬誕生か??」と前評判の高かったロジユニバースのまさかの14着惨敗はどうしてだろう??心配だ。

ロジユニバースはアンライバルドと同じ父、ネオユニバースの息子で、これまでの無敗の強さを目の当たりにしてきたファンには、納得できない結果だっただろう。故障でなければいいのだが、、、、。

実は、別の意味で、私はロジユニバースを応援していた。この馬は生まれながらに左脚が曲がっており、一歳ぐらいまでは本当に目立たぬ普通の馬で、もともと、中央の競馬に出場できること自体が信じられないほどの地味な存在だったらしい。

体のハンデもあり、2歳ぐらいまで全く買い手がつかず、地方競馬に進ませる予定もあったほど、あまり期待されぬ馬だったとか。

その馬が一躍脚光を浴びたのは、ノーザンファームの厩舎の人とその後ロジユニバースを購入したオーナーに、その隠れた素質を高く評価され、中央での出走に備え、本格的な調教が始まってからとのこと。

このオーナーは15歳からホースレースの虜になり、重賞を獲得してきた名馬達の走りを常に脳裏にインプットし続け、「名馬の走り」に詳しいプロ中のプロだとか。

脚曲がりを承知で、ロジユニバースの走っているテープを何度も見直し、前脚が曲がっていてもその力強い見事な走りに感動し、むしろ腰の入った素晴らしい走りにすっかり惚れ込み、即購入決定。初の馬主になったとか。

そしてその後の重賞も含め4戦全勝という素晴らしい成績でロジユニバースの非凡な才能とオーナーの先見の明を証明したばかり。だから、私は、ディープインパクト以来初の無敗の皐月賞馬の誕生を実は心待ちにしていたのだ。

もし、達成できていれば(もう惨敗だったけど、、、)無敗の皐月賞馬は史上17頭目の快挙だったのに、、、、残念!!

3強のもう一頭のリーチザクラウンは武豊騎手のコメントで、レースの最初から掛かり気味で折り合いを欠き、まったく彼の長所は発揮できず、不発のままで終わった消化不良のレースだったとか。彼の敗因ははっきりしているから安心なのだが、ロジユニバースの不発は原因不明。

目下JRA全国総合のリーディングジョッキー首位をひた走る、名手横山典弘騎手も逆に、報道陣に何が問題だったと思うか質問するほどロジユニバースの不発の原因が分からずショック。

ロジユニバースは早くから、関東のエース!!、久しぶりに関東に期待の星!!と騒がれすぎ、疲れちゃったのかな??本当に故障じゃなければいいけど、、、とただただ無事を祈るのみ。

それにしても、無敗で最初のクラシック一冠目を勝つこと自体が本当に難しく、それを考えると、最初に無敗で牡馬クラシック3冠馬になった皇帝シンボリルドルフとその皇帝に21年ぶりに並び、2頭目の無敗の3冠馬となったディープインパクトという馬の超絶的な強さが改めてわかる。

この2頭が確かに歴史に残る最強馬であったことを改めて感じさせてくれた今年の牡馬クラシック第一弾、皐月賞。

勝つことをファンから強く要求された中で当たり前のように勝ってきた2頭の無敗の3冠馬は、やはり一枚も二枚も能力が上だったとしか言い様がない。

しかしまだまだ、今年の牡馬クラシック戦線は終わったわけではない。始まったばかりだ。最高峰のダービーと菊花賞が控えている。

惜しくも敗れたロジユニバースとリーチザクラウンの陣営は、ぜひ原因を究明し、しっかり立て直して仕切りなおしをしてほしい。実力はほぼ同等の3頭。

この3頭の見事な血統表から言っても、力を出し切れさえすれば、次はレベルの高い、歴史に残る素晴らしいダービーが見られるはず。今回は取り敢えず、皐月賞一冠、アンライバルドと岩田康成騎手おめでとう!!

2009年4月18日土曜日

話題の映画

「スラムドッグ$ミリオネアー」がついに日本でも公開の日を迎えたそうだ。あの日本中を歓喜の渦に巻き込んだ「おくりびと」がアカデミー賞、最優秀外国語映画賞の栄誉に輝いた日、最優秀作品賞、監督賞など、8部門でアカデミー賞を受賞した話題作だ。

舞台は今、経済がもっとも沸騰しているといわれる注目の場所、インドのムンバイ。そこのスラム街で貧しい生活を送り、スリやたかりを繰り返し、どん底生活を送っていた一人の孤児が、その凄まじい貧困生活にもまけず、体で覚えた生活の知恵を駆使して、クイズ番組の「ミリオネアー」に挑戦。

医者や弁護士などの知識人でもなかなか到達できない最終問題にまで到達し、司会者から疑惑を持たれるという話。

最初はアメリカの10館の映画館でしか公開されなかったこの作品。イギリスの監督の作品だが、すべてロケはインドで行われ、制作費もあまりかけずに作られた作品。インドの活気溢れる生活の様子が活き活きと描かれているそうだ。

素晴らしい出来栄えに、鑑賞し終えた観客から、自然に口コミで宣伝され、ついに、映画人の最高の栄誉、アカデミー賞にノミネートされ、8部門で賞を獲得するほど、人気沸騰。

役者も無名。制作費もわずかでも、内容が素晴らしければ多くの人の心を打つ作品となり、後世に残る。「おくりびと」も長い間、映画会社からは製作のOKが出ず、世にでるのが遅くなったとか。出てみれば、地味な内容にも関わらず、アカデミー賞でもその出来栄えが認められ、多くの人々の心に残る作品となった。

実は私は、予告編だけは先回の訪日の時に偶然見たが、まだ、本物は観ていない。多くの講評を読んだだけだ。丁度、ゴールデンウイークで息子がカナダに戻るので、DVDでも探して貰おうと楽しみにしている。せっかく日本で上映されているのだから、皆さんはぜひご覧になったら?!と又、余計なお節介。

でも、インドの素晴らしい活気が伝わって来て、不景気な憂さを晴らしてくれるほど、パワー溢れる作品らしいから、、、、。この逞しい孤児に皆さんも活力を貰えるかもよ。あ~あ!!私も早く観たいものだ!!

2009年4月16日木曜日

新しいファミリー

といっても、我が家ではない。アメリカ大統領、オバマ家に可愛いワンちゃんが登場。ポルトガルウオータードッグとかいう、あまり聞いたことがない、珍しい種類。オバマ大統領が選挙戦の最中に、お嬢さん達に、「大統領選に当選したら、犬を飼ってあげる!!」と約束。待ちかねたワンちゃんが、数日前にお嬢さんの元へ。

名前は「ボー君」というそうだ。ボーはフランス語の綺麗なという意味の命名かな???もしそうなら、ボーは男性に使う形容詞だから、オスらしいと、、、これは想像だけど、、、、。

顎の下、胸前、前足の下半分が白い毛で、あとは真っ黒の中型犬。毛がクルクルと巻いていて、犬種を言われなければ、プードルの一種みたい。

プードルといえば、我が家の現在の愛犬もプードルのオス。彼の名前は「チッチー君」。クルクルと巻いた白い毛に愛くるしい目。(飼い主は皆、そう言う)丁度、飼いはじめて3年になる。ようやく、少し、やんちゃがおさまり、落ち着いてきたが、オスなので、気が強く、少し吠え癖があるので、目下調教中。

この犬で、もう、私が飼った犬は40匹ぐらいにもなろうか、、、、。大抵子犬から飼うので、最初の一週間位は躾けで殆ど寝不足。チッチーはトイレの覚えがとても早く、一週間もかからなかった。プードルは頭がいい。そして、何よりもいいのは、毛が抜けないこと。

以前我が家で飼っていた殆どの犬は毛が抜けるので、衣服や絨毯が毛だらけになり、掃除が大変だった。オバマ家のボー君は上のお嬢さんが動物アレルギーがあり、このボー君が選ばれ、エドワードケネディ議員から、贈られたそうだ。

大統領でもパパ。やはりお嬢さんには甘いパパらしい。ほのぼのと心温まるニューファミリーの登場。犬好きの私は、このニュースだけで、オバマ大統領にぐっと親近感が湧いた。

老人ホームで、お年寄りの心を癒すセラピー犬。目の不自由な方をアシストする盲導犬。青少年の荒んだ心を慰める訓練犬。警察犬や救助犬。最近空港でよく見かける麻薬取締り犬、、、などなど、大いに世の中のお役に立っている素晴らしいワンちゃん達。

まあ、我が家のチッチーはそれらの優秀なワンちゃんたちには、及びもつかぬグウタラ犬だが、ただ愛くるしい目で、甘えてくれるだけで、私の心を大いに癒してくれる我が家の大切なファミリー犬。長生きしてほしいものだ。ボー君もお幸せにね!!

2009年4月12日日曜日

春の訪れ!

我が家に毎年春の訪れを感じさせるもの、、、、。それは沢山ある。でもまず最初のシグナルは、向かいのスキー場のナイター照明の消灯。12月中旬から雪の訪れとともに灯り続けたイルミネーションが消灯されると、「ああ、今年もナイタースキーが終わりか、、、そろそろ春だなあ~~!」と感じる。

そして、大地にはまだそこここに雪が残っているころから、竹の子の先のように尖った芽が凍えた大地を切り裂くように見え始める。まだまだ、この頃は、時折冬に逆戻りし、パラパラと雪がチラつく日も週に一度ぐらいはあり、本格的な春の訪れとは言いがたいが、もうすぐそこに春が、、、と、春の到来を予告してくれる。

次に目に付くのは、隣近所の枯葉掃除。じょじょに芝が緑を深め、秋に散った枯葉が雪の下に埋もれていたのを、竹箒で掃き清めるのだ。そして、ベランダへのテーブルや椅子の配置。どこの家も待ちかねた初春に行う年中行事だ。

この光景が始まると、もう春はすぐそこ。早い花々の咲き始めもそこここで観られるが、我が家では、名も知らぬ黄色い花をつける樹が、真っ先に咲く。そして、門に繋がる道の両側、裏庭の窓辺、テラスの淵などに、見事な芝桜が咲き誇る。ピンクの可憐な花(白もある)が、毎年見事に咲き誇るころが、そろそろ私の一番楽しみでもあり、忙しい花入れのタイミング。

前庭の樹の下の土地に直植え5箇所(かなり広いスペースに植え込むので大変)。玄関脇の鉢(これも大鉢なので疲れる~~)に3鉢。そして、裏庭の方はもっと大変で大鉢は5箇所、土地に直植えは2箇所。

これらの植え込みが始まる前に、すべての直植えする土地と花壇、大鉢の中に肥料の補給。などなど、準備万端整えて、大きな植物及び花専門市場に買出しに行く。そこで、ベランダに掛ける花籠も含め、大抵大きなワゴンに一杯、花を買う。

日陰が相応しいもの、日差しが強い場所を好むものなどを選びわけ、植え込みの際の花の構図なども考えつつ、花を眺めている時が、本当に楽しい。最初は少なすぎたり、多すぎたりとなかなか丁度よく買うことができなかったが、これもすでに毎年経験しているうちに、ほぼきっちりと使い終える量がわかり、慣れてきた。今年はこれから、アメリカへの旅行を控えているので、多分植え込みは5月初旬までお預け。

さて、日本で、私に春の訪れをもっとも早く印象づけてくれるのは、勿論、桜の花の開花情報。そして、その桜の花の下、まだ幼さの残る3歳になったばかりの可愛い牝馬が一生に一度の晴れの舞台「桜花賞」で走るクラシック第一弾の開幕。

今年は「ブエナビスタ」という可憐で可愛い牝馬が前評判どおりの物凄い末脚で、圧巻の走りを見せた。彼女はすでに「女ディープインパクト」と命名され、渾名もディープインパクトの「お坊ちゃん」に対抗し、「お嬢様」。ブエナビスタとは、スペイン語で「素晴らしい(見事な)景色」という意味らしい。桜の下を可憐に舞う彼女に相応しい名前。

これから、オークス、秋華賞と牝馬クラシック3冠馬までには、二つの難関があるが、距離的には長いオークスや秋華賞の方がむしろ有利で、陣営は自信満々。又、牝馬3冠馬の誕生、期待できそう。

レディーファーストで牝馬にクラシック開幕を譲っている牡馬クラシック第一弾、皐月賞ももうすぐ。今年は日本の競馬史を大きく変えた大種牡馬、サンデーサイレンスの孫達で争われると言われる、いわば身内対決。

父親同士の面子もかかるだろう。ロジユニヴァース、アンライヴァルド、リーチザクラウン。どれも超一流馬と評判。さて、どの馬の頭上に3歳牡馬クラシック第一弾、皐月賞馬の栄冠は輝くのだろう。

このような、わくわくする牡馬、牝馬3歳クラシック開幕のニュースも又、日本の本格的な春を私に強烈に印象付ける。それにしてもブエナビスタで春の桜花賞勝利騎手の栄冠に輝いた安藤勝巳騎手。ダイワスカーレットが無念の引退をしても、彼女の不在を補って余りある女ディープインパクト、ブエナビスタがすぐ現れ、早速G1二つ目をゲット。

貴方はよほど、強い牝馬と縁があるのね!!おめでとう!!貴方がこの桜花賞の勝利でJRAのクラシック勝利騎手の最年長優勝記録を69年ぶりに更新したことをしり、喜びが倍増。最年長優勝記録といってもまだ、49歳。

遊びながら走っているお茶目で可愛い牝馬、ブエナビスタを益々強くして、今年の3歳牝馬クラシック3冠全部獲っちゃって!!女ディープインパクトの名前に恥じないように、、、。連対率驚異の4割を誇ったこともある安藤騎手。「アンカツで負けたら諦めがつくさ!!」とまで、多くのホースマンに絶大なる信頼をよせられている、名手、いぶし銀の匠の技、長くみたいから、くれぐれもお体お大事に~~!!

春の独り言の最後は又、お馬の話題でお粗末!!

2009年4月9日木曜日

太陽が一杯

さて、皆さんはこの標題をみて、何を想像されるのでしょうか。私と同年輩ぐらいの方なら、もしかして、、、あの??とすぐお分かりになるかもしれない。

そう、あの、今から50年程前の素晴らしい映画の題名!!

息子が日本で、撮り溜めてくれているDVDを観ていたら、なんと、偶然、この映画の日本語版吹き替えの番組を収録していてくれた。この番組は一年近く前に日本のテレビで放映されたもの。ご覧になったかたもおられるかも、、、。

いやあ!!懐かしかった~~!!私はこの映画を間違いなく、銀座のどこかの映画館で観た。超超若いころ。主演のアランドロンも若いこと、若いこと。そして、ハンサムなこと、ハンサムなこと。この頃、若い女性の間で、ハンサムな男性の代名詞は「アランドロン」だった。

ルネクレマン監督の作品で、その見事なストーリー展開と素晴らしい海、豪華なヨットやホテル。粋な服装。何から何までタイムスリップして、昔の名作を楽しんだ。

そして、何よりも懐かしいのはその全編に流れるテーマミュージックの甘く切ない調べ。私の年代の方なら、必ず一度は耳にしたことがある名曲だ。

「太陽が一杯」の原題  Plein Soleil  は当時の私には何のことやらわからなかったが、ケベック省に住んで、フランス語に馴染んだ今なら、ああ!!日本語訳は原題どおりなんだ、、、と改めて、わかった。

珍しくアランドロンが悪役を演じ、殺人者となるストーリーだが、ハラハラドキドキする展開と最後のドンデン返しがあまりにも見事で、初めて観た映画のように、興奮した。

一年程前、ビストロSMAPという番組のゲストとして、アランドロンを久しぶりに見た時には、超おじいさんになっていて、昔のハンサムなイメージが全然なく、がっかりしたことを思い出したが、この素晴らしい名作を再び観て、往年の彼にすっかり魅了された。この作品はおそらくアランドロンの出演作の中でベスト5に必ず入る代表作だろう。

今の若い人の中には「誰??そのアランドロンって??」、「太陽が一杯、、聞いたことがない!!」と全然知らない人もいるかもしれない。

それ程、古い俳優であり、古い作品ではあるが、名作とはいつの時代に観ても色褪せず、迫力のある作品だから、読者の皆さんは、騙されたと思って、観てご覧よ!!後悔しないと思うよ!!別に映画会社の回し者じゃないけどね、、、。

そういえば、カナダに移民して2年ぐらいした時、エレクトーンを買い、暇に任せて弾いていたことがある。超簡単な旋律の繰り返しの「太陽が一杯」のテーマミュージック、一生懸命弾いていたっけ、、、。

あ~~あ!!一時の熱が冷めて、プレイルームの場所が狭くなり、このエレクトーン誰かにやっちゃった、、、。楽譜だけは残っているのに、、、残念!!ああ!又、弾きたくなってきた~~。

2009年4月6日月曜日

終わりではなく始まり!!

世界中の注目の中、静止をふりきり、ついに昨日、北朝鮮のミサイルが打ち上げられた。その前日の情報伝達ミスを含め、右往左往した政府関係省庁の慌てぶりが、遠く海外にまで、伝わってきた。

一日目の延期の報道で、一部のニュースでは(カナダで放送されている番組)、もう打ち上げは中止されるのでは、、、という報道までされていた。しかし、やはり中止されることはなく、強行された。

人工衛星打ち上げとの名目をかかげ、中止勧告も聞かず、堂々と強行した北朝鮮。それはそうだろう。世界の意見に耳を傾ける常識的な行動ができるなら、他国から、大切な娘や息子を拉致誘拐などするはずがない。

そんな簡単なことがわかりつつ、まだ一部では、「やるはずないさ、、、とか、大丈夫さ!!」と何の根拠も自信もないままノー天気に他人事のように過ごしている人も多い。

実際に被害に遭われ、眠れぬ日々を過ごし、必死に政府に訴え続けている拉致被害者の皆さんは、堂々と日本上空を通過してゆくミサイルのニュースをどんな思いで聴かれたのだろう。さぞかし、心を掻き毟られるような、悔しい思いをされたことだろう。そして、しみじみと無力感に囚われたことだろう。

幸い、日本の領土に落下物はなく、人的被害は未だ報告されていない。しかし、実際に「ミサイル発射」を通告されてから上空を通り過ぎるまで、岩手県、秋田県の住民の皆さんは、どれ程恐ろしい思いをされたことだろう。東京だって例外ではなかったはずだ。

ミサイル発射実験に完璧な成功などないことをすべての国の人々が知っている。他国に不安と恐怖を与え、今後の交渉を有利に展開させるための手段であろうが、これほどむなしい実験もない。

岩手県や秋田県の多くの人々が今回の実験によるストレスで体を壊されないよう、心からお祈りしている。

勿論政府は直ちに、断固たる処置をとると発表した。しかし、一部では、「この貴重な体験を予行練習として、今後の対応に活かしてほしい!」などという、悠長な談話を各関連省庁向けに発表していた。

予行練習で、あたふたしている平和ボケ日本!!今回の実験で我々は、すぐお隣に、なりふり構わず危険を犯し、一か八かのギャンブルに平然と立ち向かってくる恐ろしい国があることを改めて見せられた。

危険はすぐ貴方のお隣にあり、みんなが自分自身の問題として危機意識を持つべき時なのだ。政府が、、、お役所が、、、などと他人任せにすべき問題ではない。

変な例えだが、もし、貴方の子供さんが、貴方の目の前で、やくざや不良に暴行される姿をみたら、貴方は親としてどうするのだろうか?!黙って見過ごせるのだろうか?

そして誰かに、「事故ですよ。事故。忘れなさい!!悪い夢を見たと思って、、、。冷静に対応!冷静に対応!」などと諭されたとしたら、、、。

きっとどんなことをしてもその犯人を捜しだし、問題を解決するために立ち上がるだろう。どう解決するかは相手の出方次第だとしても、、、、。

結局、究極の究極は、一人一人が、我が身にふりかかる火の粉は必ず払うという、高い自衛意識を持ち続け、真剣にこの際どう行動すべきか、考える時がやってきたのではないだろうか。国民が選んだ政府を真剣に動かすのも国民一人一人の態度と意識が問題。

今回、北朝鮮のミサイルが上空を無事通過したという報道は、けっして、お目出度いことではなく、限りなく日本が危機に晒されていることを、改めて我々に示唆した。常軌を逸した国の射程圏内にわが国があるということは、本当に恐ろしい事実だ。

我々は日常的に、すでに被害にあわれている人々の苦しみを自身の問題と置き換えて、考える努力をしなければならない。日本国民の危機意識が幾分なりとも高まれば、今回の北朝鮮からの不幸な刺激も少しはプラスになるのかな?

2009年4月4日土曜日

心配だねえ!!

4月といえば、桜も満開、色々な入学式、入社式などなど、お目出度い話題が満載なはずなのに、どうも、日本も海外も気になる話題が満載。

日本では、メガバンクの赤字転落。製造業の引き続きの不況。上海広電(中国)の破綻による日本の家電業界への影響。これでもかこれでもかと厳しいパンチがとんでくる。でも円は100円台に突入。少し輸出業には恵みかな??

そして、何といってもメガトン級の恐ろしい脅しは、北朝鮮のミサイル発射。もうそろそろだね。燃料注入も終えたらしいから、、、。イランと共同でいろいろやっているとか、、、。

あ~~あ!!何で日本はこう標的にされるんだろう。拉致
誘拐だけでも、どれほどの国民が眠れぬ夜を過ごしていることか、、、、。世界中の人々を不信と不安に陥れての駆け引き!!お願い!!いい加減にして、、、、。

アメリカのニューヨークでは又銃の乱射事件発生。大きな犠牲者が出ている。いったい誰が何の目的で、、、。犯人をただ責めるだけでは済まされぬ、狂気にまで追い詰められていく悲痛な人々の叫びが聞こえる。

GMのCEOが実質上、アメリカ政府からの首の通達でチェンジ。経営責任をとらされたとか。公的資金を注入してもまだまだ問題だらけの現状。新CEOは更なる改善策を要求され、破産法適用も辞さないと表明。

すでに8.5%にまで膨れ上がったアメリカの失業率がもっと高まり、更なる不景気に襲われれば、結局しわ寄せは世界の国民へ、、、。輸出国日本の不安は高まる一方。無力なテツママはただただ「あ~~あ!!」とため息ばかり。

わずか一年前の今頃は、まだまだ好景気だった日本経済。世界の経済学者の誰一人としてわずか半年後の天国から地獄へのストーリーを予測公表できなかったなんて、、、、。どうして???なんで???

公的資金注入後の何が何だか一般庶民にはよく分からぬ、いい加減なお金の使い道も、AIGの幹部ボーナスの一件で、大きな問題となり政府はしどろもどろの説明。

そういえば、日本の長銀事件も誰の責任だかうやむやのうちに闇の彼方へ。日本民族は本当に大人しすぎるんじゃないの??? 結局、世界中、問題の尻拭いは国民の血税で賄っているんだから、、、!!

北朝鮮のミサイル発射問題や世界経済とは規模が違うけど、イチロー選手の胃潰瘍判明もショックだね。日本国民を狂喜乱舞させてくれた国民的ヒーローの頑張りの代償は大きすぎたよね。

胃潰瘍なら、間違いなくストレスが最大の原因。「心が折れそうに、、、」とまで落ち込んだ、彼の心痛の大きさが、はからずも証明されてしまった。鉄人イチロー選手の初のメジャー開幕戦欠場はアメリカのファンにとっても残念だろう。

まずはイチロー選手。取り敢えず十分体を休めてください。「お大事に!!」(多分テツママだけじゃなく、世界中の野球ファンの願いと祈り、、、。)

大リーグ主導で行われるWBC。アメリカの球団はなかなか主要選手のWBC参戦にOKを出さないから、4年後に影響がなければいいけど、、、。イチロー選手ほどの看板選手の欠場はチームの集客力にも大いに影響するだろう。

城島選手や日本に戻った侍ジャパンの選手の中にも、数日してガックリと疲れが出た人がかなり居たそうだ。皆、本当に本当に一杯一杯の気持ちで頑張ってくれていたんだね。重いんだ!!日の丸のプレッシャーは、、、って、改めて再認識した。 もう一度、お疲れ様!!侍ジャパンのすべての戦士。

色々な名優の訃報も次々と入り、やっぱり季節の変わり目は体に気をつけなきゃ、、、と感じるこの頃。皆さんもお体お大事に、、、、。

2009年4月1日水曜日

どうして馬の話題??

私の独り言にお付き合い下さっている方は、その独り言の内容に「馬の話題」が多いことにお気づきのこととおもう。それは、今住んでいるカナダの東部の自宅付近の環境にも大いに関係がある。

私が住んでいる町は、モントリオールから東に100キロ程離れた、人口5000人ほどの小さな町だ。しかし、ハイテク工業区も側にあり、GE IBM など、世界的にも有名な会社の工場がある。従って昼の人口は3倍ぐらいにも膨れ上がり、小さな空港もあって、プライベートジェットで訪れる人も多い。

ここを開いた最初の市長さんの家を縁あって兄が購入し、その彼の所有地を私も少し分けてもらった関係で、彼の家や人口湖を有した湖畔の小屋に何度かお邪魔したこともあった。そこには、馬車や馬の写真が飾られており、その湖畔の土地で過去に飼われていたポニーの写真もみせてもらった。

この小さな町の特徴は、多くの国際的なスポーツイヴェントがしばしば開かれることだ。我が家の前は山で、冬はアルペンスキーの初級者、中級者、上級者を迎え入れることが出来るゲレンデだ。ここでは上級者用のゲレンデで、ときどきアルペンスキーの国際試合も行われる。勿論、スノーボードも可能。

このゲレンデは夏はマウンテンバイクの国際試合用のコースとなる。夏には、色とりどりの帽子を被ったレーサーが、そこここに見受けられ、自転車のロードレースも行われる。山あり、林あり、湖ありのこの地は、無数のゴルフ場も点在し、我が家の前はPGAツアー仕様のゴルフ場で、我が家はその10番ホールに庭がせっしている。ゴルフボールが庭に飛び込んでくるのは、日常茶飯事だ。

さて、本題のお馬。この色々な国際試合を執り行う風光明媚な町にオリンピックを、、、、と願ったのがこの初代市長。彼の夢で、国際馬術競技が行えるオリンピック仕様のスタジアムが、我が家から車で数分のところに開かれ、ついに1976年のモントリオールオリンピック開催時には、障害及び馬術競技の会場として、世界の乗馬競技の選手や乗馬愛好家がこの町に集結した。

町を車で走っていると、牧場や乗馬場が多く、路上にも調教馬、散策馬などが、緑の自然の中に、日常的に目に入る。「美しいなあ~~!!」とその光景に見入ることも度々。そして、今でもこの国際馬術競技場に隣接した厩舎によく遊びに行く。そこには度々大試合で金賞をとったチャンピョン馬も入厩していて、間近でシゲシゲとそのピカピカに磨かれた綺麗な馬体を見るチャンスがある。

私の以前のブログ「テツママの8ヶ国語喋る子供の育て方」を読んでいた人なら、私がここに家を買うと決めた日の衝撃的な馬との出会いを記憶している人も居るかもしれない。とにかく、この町で、夏は緑の中を颯爽と走る馬に、秋は紅葉の中を犬を連れて狐狩り出かける馬群に出会うことが多いのだ。

そしてここで、日常的に馬と触れ合って居る内に、私は遥か昔、スピードシンボリという馬に夢中だった自分を思い出した。どうして夢中になったのか??というと、この馬は、大器晩成という言葉がびったりの5歳からまさに活躍した馬で、当時では珍しく海外遠征に目をむけ、アメリカ、イギリス、フランスに遠征した馬だったからだ。

残念ながら海外では好成績を残すことはできなかったが、果敢に世界に挑んだ彼と彼の陣営の姿は、まさにこのころ、「一人ででもいいから、アメリカへ行ってみたい!!そして、広い世界をしりたい!!」と夢みていた私の憧れ的存在だったのだ。彼の良きライバルとして当時君臨していたのは、アカネテンリュウという馬で、牝馬同士ではないが、まさに、現在のウオッカとダイワスカーレットのように、良きライバルだった。

彼は5年連続で有馬記念出走という快挙を成し遂げ、8歳で引退し、その後、私は自分の人生の大きな転機続きで、正直、馬に目を向けるなどという余裕はなくなった。だからその時はただ、ミーハー的に一過性の熱を上げただけで終わった。

しかし、このカナダの東部に居を移し、日常的に馬に接し、改めて馬にも深い興味を抱くようになり、息子にも乗馬を習わせるようになった。そして、その練習についていくうちに、練習馬場に隣接した厩舎の中で多くの人々が大切に大切に馬を洗ったり、世話をしている姿が自然に目に入り、みんな大変な愛情をもって、馬達と日々を過ごしていることに気がついた。

そこで、少し色々な馬に関する本を読んでいくうちに、一頭のカナダ産の素晴らしい馬が、近代の世界のサラブレッドの歴史に大きな影響を及ぼしていることを知った。その馬の名前は「ノーザンダンサー」。この馬のオーナーは、偶然にも、息子の大学の先輩で、卒業後、ビジネスで大成功をおさめ、モントリオールの大富豪の一人となった。

彼は当時、カナダの馬産があまりパッとせず、カナダの馬は世界的に通用していないことに気づき、生まれ故郷のオンタリオ州に戻って、トロント郊外に牧場を開設した。始めはカナダ産同士の馬をかけ合わせて繁殖していたが、なかなか強い馬を出すことができず、ヨーロッパの馬やアメリカの馬とかけ合わせ、ついに世界のサラブレッドの歴史に大きな足跡を残す、「ノーザンダンサー」という馬を生み出すことに成功したそうだ。

ノーザンダンサーの輝かしい戦績は言うまでもないが、更に凄かったのはその血統の繁栄。今、世界の最強馬の先祖をたどっていくと、父系又は母系でほとんど「ノーザンダンサー」に突き当たるほど、素晴らしい子孫を多数排出した。当時、ノーザンダンサーの血の一滴はダイヤモンドの一カラット以上の価値があるとまで言われた彼が、今から50年程前に、我が家からわずか車で2時間ほどのところでEPテイラーという馬産家によって大切に産み出されたことをしり、私は大いに馬の血統なるものに、興味を抱き始めた。

そして、最初に私に馬というものを大きく印象づけてくれた、スピードシンボリこそが、ディープインパクトの前に最初の無敗のクラシック3冠馬となった、あの皇帝シンボリルドルフのおじいちゃんだったことを知り、驚喜した。

スピードシンボリは皇帝シンボリルドルフの母以外には種牡馬として、特筆すべき馬を排出していないが、8歳まで5年連続有馬記念に出走という快挙をなしとげ、当時としては珍しくタフな、イギリス、フランス、アメリカにまで遠征し、老いてから排出した彼の娘がこのシンボリルドルフの母として、最後に父親に大きな勲章を贈ってあげたことを知って、ほのぼのとした気持ちになった。

それからの私は、カナダから日本の競馬や世界のレースに注目するようになり、レースを観る前には、参加馬の血統が気になって調べ、時にはその血のロマンに感動し、魅了されるようになった。

父娘でダービーを制覇したタニノギムレットとウオッカ。お父さんのギムレットというお酒より、ウオッカの方が何倍も強く、そして、タニノという冠名をあえて外した訳は、なにも混ぜず、ストレートのお酒の方がより強いからストレートにウオッカと名付けたというオーナーの粋なネーミングのエピソードを知ったり、直前の状態、厩舎の人々の熱き思いなどを調べたり読んだりしてから、レースを見ると、本当に数倍楽しくなる。

そして、珠玉のようなサラブレッドを世に送り出すために、日夜、見えないところで細心の努力を払っている人々に思いをはせると、時には、レース後、ジーンとするときがある。

つい先週の日曜日にも、なかなかG1を勝てなかったローレルゲレイロが、父キングヘイローが苦労の末に初めて制した高松宮記念を、奇しくも父と同年齢で制覇したという、「ヘイロー父ちゃん、僕もやったよ!!」というニュースの見出しを読んで、ほのぼのとした気持ちになった。

実は女同士として、スリープレスナイトをひそかに応援していたんだけど、彼女も病気休み明けで、連対は外さず実力を出したし、上村騎手も素晴らしい騎乗をしたそうだから、素直にローレルゲレイロを称えたいと思った。

こうして、息子は人間の遺伝子に、母の私は馬の遺伝子にそのロマンを求め、私は、17世紀の欧州から脈々と引き継がれている、そのサラブレッドと人間の苦闘と愛の歴史を紐解いて、大いに楽しんでいる。

馬に興味のない人々には退屈な時間かもしれないけど、まあ、この変人テツママの独り言にこれからも時々お付き合いをよろしく、、、、。